ご報告が遅くなりました、先日23(土)の 第10回 小説の実践サロン、ご参加の皆様どうもありがとうございました。
次回は6月11日(土曜日)になります。あと4席あいております。
今回は、珍しく小テスト?がありました。
先生の著書『実践小説教室』の一部が、K大学の入試問題として使われたので、
「皆さんも、解いてみましょう」ということで…。
[実践]小説教室: 伝える、揺さぶる基本メソッド/PHP研究所
これ、小説を書きたい人にすごく役立ちます
ウン十年ぶりにこういうものを解いて、脇からへんな汗が出ました。わたしK大学に受かるかしら。
【問題】「A~Fの中から、もっとも作者の意図に合うものを選びなさい」
【先生】「僕はA~Fのどれも意図していないんだけど(笑)、消去法で選ぶとしたら●ですかね」
という。これって「入試問題に作品を使われた人あるある」かもしれませんね。
こういう○×問題に血眼になってきたから、私は小説を書けないのではないか。(学校教育のせいにする)
◆
さて、今回の課題図書は川上弘美さんの芥川賞 受賞作・『蛇を踏む』。
自分にとっては、「小説の読み方の革命」という感じで、とても興奮しました。
長文がうっとうしいと思うので、FBのサロンページでなくこちらに記録します。
蛇を踏む (文春文庫)/文藝春秋
¥464
なんじゃあこりゃあ。それこそ試験問題に挑むように、なんとか世界観を分析しようと試みてしまいました。
・・蛇とは何のメタファーなのか。
・・蛇の世界とは原始的祖祖先か潜象界か。「ヒワ子」とはカワラヒワの象徴なのか。蛇という一段次元の違うものに呑み込まれることを示唆しているのではないか・・。
・・・さっぱりわからない。分析むり。次に収録の『消える』なんて、もっと読解不能。
でも、訳がわからなさすぎて、一周半まわって気持ちよくなってきました。ぜんぜん意味がわからないのに気持ちいい小説って、あるんですね。自分も昔「ねこま」だったことがあるような。
分析不能ですが、わからないことや、見えないことや、ある世界やない世界や、取りあえず受け容れる「私」は、濃くなったり大きくなったりするし、
逆に、抵抗し、あるいはなじめないコスガさんやヒロ子さんは、薄くなったり縮んだりするのではないか。
そういうふうに、自分の「法則」で読めばいいのじゃないか。
自分はなんでも「分析しようワールド」「解読しようワールド」にいすぎじゃないかと思いました。
悩みすぎて、文庫のさいごに収録の『惜夜記』まで読めなかったのですが、講義中にちらっと見えた見出し「シュレジンガーの猫」・・
って、確か量子力学の有名な実験じゃなかったでしょうか…生きた猫と死んだ猫が混ざる?パラドックス…観測によって決定が変わる的な…(うろ覚えです。検索してください)。
そういえば文庫本のそでのプロフィールを見ると、川上弘美さんはお茶女の理学部卒だそうです。しかもSF作家だったことがあるそうです。
最近読んだ科学の本に、
物質を、素粒子のそのまた先へ、もっと、もっと微細に分解していくと、やがて「ホログラム」なり、「ある」とも「ない」ともつかぬ現象(≒幻想)となり、結局、この世界は「観測者」の「認識」次第で成り立つ。ちゃんとした科学者たちはそれを知っているという記述がありましたが、川上さんの小説は、もしかしてそれをやっているのか??
さてここから、
【先生の講義】・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
エミール・ゾラ(1840―1902)が唱えた、実証的な自然科学の手法を文学に導入する「自然主義文学」とは、
ひとが生きる物語には「時代環境」と「社会環境」と「遺伝子」とが作用するというもの(実験小説論)
↓
これが近代文学として日本に入ってくる際に、「科学」のぶぶんが落っこちてしまった。
ために、日本の「自然主義文学」はザ・私小説といわれるような…ex.)女と貧乏と戦争と…そうしたヤミを乗り越えて成長する人の心の葛藤よ「自我よ」ーおお…という感じが主流になった。
が、みなそういうものに辟易していたころに、川上さんのような人が出てきた。
川上さんは“近代”を外したものを書いている。しかしそれは、じつはものすごく科学的なのかもしれない。
きりよく分類してゆく視点というのは、実は科学的ではないのかもしれない。
(意味に着地しない。宙ぶらりん、漂流感、でも気持ちのよい解放感。
外界や社会と人が葛藤するのが近代文学。しかし、ある所では外界や他人と別れず統合してしまうことが皆ほんとうは気持ちがいい。だから人はドラッグやアルコールをやってしまうのかもしれない。それは、昔の日本人が知っていた一体感でもあるのだ)
(文春文庫の「解説」も要参考……「きりがない」ということ‥…分類学の秩序に取返しのつかない混乱が生じてしまう川上小説…)
つまり、蛇は何のメタファーでもないんじゃないんですかと。
ちなみに、『蛇を踏む』は、蛇を「ポメラニアン」とかに変換してみると、また違うものとして読めるそうです。
そういう数式的面白小説でもあると。
f(x)の x に、ポメラニアンを代入してみると・・・・・・
「秋のポメラニアンだったので動きが遅かったのか。普通のポメラニアンなら踏まれまい。ポメラニアンは柔らかく、踏んでも踏んでもきりがない感じだった」
ぷっ—–
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