つづきです。
(高橋源一郎さんの講話より、箇条書きでピックアップ)
◆災害のことと、原発のこととは、別の文脈で考えることだろう。しかし、複合的に考えたほうがいいこともある。たとえばこんなこと。
原発が置かれはじめた所は、明治維新のときに「旧幕府側についた」ところ。
当時の新政府は、それらの土地を辺境あつかいにした。
たとえば原発以前は、それらの場所に、とある病気の隔離施設が多く置かれた。
また、元来、米の産地はタイなど「南方」であり、本来型の…昔の米は「寒さ」には向かなかった。
しかし植民地を失った政府は、米の余剰ストックを確保するため、戦前はさほどの産地でなかった東北で、急速に品種改良したお米を作らせるようになった。
今では質の良い米がたくさん作られており、東北の名誉を毀損するものではない。
何が言いたいかというと、東京など中央都市を守るように作られ、そこから離れるほど「保護」がうすくなる、この国のおかしな部分。
水俣病など公害が明らかになったときも、国や技術者は「基本的には問題ない」と、今とまったく同じ「ことば」を喋っていた。
◆原発推進大国であるフランス政府は「原発は、カンペキな民主主義国家でなくては扱えない。日本政府には無理」と言う。
民主主義とは、すべての情報がさらされ、大衆が「ことば」をよく使って熟考してすべてを決めること。
僕(高橋氏)は、脱原発派だけれど、「何がなんでも原発やめろ。原発推進派は撲滅しろ。やめさせてくれるリーダーならヒトラーでもいいや」、ではない。
自由にものを考え、「ことば」がよく使われた結果なら、原発が残ってもいい、とすら思う。だから、急進的な脱原発派に睨まれる。
◆3.11以降、この国の「ことば」がやせ細っていきつつあるのが、僕は心配である。
たくさんの被災ダメージがあった中で、一番打撃を食らったのは「ことば」じゃないか?
「原発推進」か。「反原発」か。
「ことば」や「文章」=単なる情報 になりつつある。
何かを言うと、そのものの意味しかあらわさない。
「放射能はキケンだよ」「キケンと言い過ぎる奴は頭がおかしいよ」とかで、おわり。それでいいのか?
「その文脈の、ここだけはおかしいよ」という議論や、コミュニケーションをする人がいない。SNSでも、リアルでも。
僕らはコミュニケーションする「ことば」すら持たなくなっているのだ。
◆「文学のことば」「小説のことば」は「どうしても反原発がいいのだ」などと決めつけない。
ありとあらゆる考え方を、滅ぼさないことが、フィクション、文学、小説のもつ長所である。つまり「多様性」である。
誰もが思いつかないことを、いち早く言うか、
一人だけみんなと同調しないで、勝手なことを言うか。
それが文学のことばであり、小説のことばである。
「正しいものを見つけたがる」ときには、意味がフクザツじゃないほうがいい。だから「ことば」や「文章」を=単なる情報にしたがる人が多い。
でも、正解や結論を手早く見つけるのはいいこと? 今は、みんなが答え探しをする。択一を迫られる。
◆文学は、この世の中で正解しなくていいものトップである。存在しない正解、存在しないフィクションをあらわせるものである。
「作者は、何を思ってこの文章を書いたのでしょう」なんていう、よくある国語の設問、
そんなのわかるわけない。
「作者が何を思ってこの文章を書いたか? それはお金のためです」と言った詩人がいた。
「僕はお金のために、詩と見合いしたのだから」と。
豊かな「ことば」「文章」「文学」には正解、結論がない。ひらかれている。多様である。
つづけます—–
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